タイトルの不思議さに内容が気になり手に取りました。
手に取ってから荻原浩さんだとわかり、読む前から期待が高かったのですが期待通りで楽しい時間を過ごせました。
【簡単なストーリー】
犯人を路地裏に追い詰め、仕事のお礼に美女からベッドへ誘われ、仕事終わりに行きつけのバーで独り、バーボン・ウィスキーを飲む。
探偵になるため生まれてきた男、私立探偵最上俊平は探偵としてハードボイルドな日々を送っている……はずだった。
ところが、現実は逃げたペットを路地裏で汚物にまみれながら探し回り、ベッドルームに通されたと思えば天井の電球の交換依頼、行きつけのバーは経営不振からおでんの販売を始めるなどハードボイルドとは程遠い日々。
上手くいかないのは探偵に見合う美人秘書がいないからだ、と募集をかけるとやってきたのは推定八十歳以上の曲者のおばあさんだった。
居座ってしまったおばあさんとペットの捜索ばかりの探偵の奇妙なコンビの前にやがて本当の殺人事件が起きてしまう。
ペット捜査専門探偵もとい孤高の私立探偵最上俊平は事件を解決できるのか。
著者:荻原浩/双葉文庫
「私」とJとおでん
この小説は主人公の最上俊平を「私」とした、一人称で物語が進んでいきます。
この「私」の理想と現実の人間たちの反応の差が可笑しいです。
探偵小説や映画のようなフィクションであれば、こういった反応がかえってくるという前提で行動する「私」の、期待する反応は一切返ってきません。
話し方が変だとか、何を言っているのかわからないだとか散々ですが「私」は敬愛するフィリップマーロウを真似し、ハードボイルドな世界観で生きることを辞めません。
そんな「私」の唯一の理解者がバーの店主のJですが、おでんを販売し始めるなど段々とハードボイルドな世界と現実との折り合いをつけ始めます。
物語が進むにつれてJの現実との折り合いのつけ方が酷くなっていくのですが、「私」はおでんを食べながらバーが現実に侵食されていくのを見て見ぬふりをします。
「私」とJがおでんを前に交わす会話が、夢ばかりでは生きていけないとでもいうような微妙なやり取りでちょっと切ないです。
正体不明のおばあさん
素性が不明なおばあさんは「私」に付きまとい、一向に探偵事務所を出ていきません。
このおばあさんが只者ではなく、とにかく図太くマイペースでずる賢いのです。
ハードボイルドに似つかわしくないおばあさんを「私」が追い出そうとしても、その動きを察知して先回りするのでどうにもなりません。
厄介極まりない存在ですが、おばあさんがファインプレーをすることもあり二人はなんだかんだといいコンビになっていきます。
言葉にしないということ
下心を出して美女を雇おうとしたり、フィリップマーロウを真似するもその世界観を理解されず変人扱いされ、仕事はペットの捜索ばかりといいところ無しの「私」ですが、実はとても優しい人物でもあります。
依頼主のペットへの扱いに憤ったり、おばあさんの心配をしたり、早まった少年の行動を未然に防いだりと、こうして並べると良い人物のようですがハードボイルドに生きようとしているせいでマイナス印象のほうが勝ってしまい、結果変人で落ち着いてしまいます。
損をする方を選ぶことを信念にしていることもあって、本当に損をしているのですが文中の「私」の思考では、損得を考えている様子がありません。
イグアナ捜索の結末についておばあさんはある誤解をしたままで、それを訂正しようとしませんし、「私」の思考を書いた地の文でも訂正しないことについての心情は書かれません。
おばあさんに気を遣って言わないだとか、自分だけの胸の内に秘めておこうといったことはなく、さらっと流されて終わってしまいます。
森の中で出会った少年とのシーンでも、あることをしようとしていたことを伺わせる描写がありますが、「私」はそれを会話でも地の文の思考でも言葉にしません。
荻原浩さんはこうした読者へ明確な提示はしないで、登場人物だけが優しさに気付いているといった表現が巧みな作家だと思います。
「明日の記憶」という作品では若年性アルツハイマー病になった主人公が、忘年会会場を見つけられず迷って遅刻してしまうのですが、部下があえて誰でも迷うような隠れ家風のお店を選んだことが示唆されるシーンがあります。
あえて明確な提示はしないというのは、やりすぎれば読者に伝わらず思わせぶりになるだけですし、なんでも描写をしすぎると説明のようになってしまって面白味がなくなります。
他の荻原作品でも同じような示唆があり、読者に想像の幅を持たせて物語をより深く広げています。
終盤の犯人から逃げ出すシーンで、おばあさんの思わぬ特技に益々その素性に謎が深まりますが、ようやく物語の最後におばあさんの家を訪れてその素性がわかります。
最後に
「私」とおばあさんが巻き込まれた殺人事件は、二人の捜査によって解決しますが「私」にとって苦い痛みを伴うものでした。そして追い打ちをかけるように「私」にはもう一つの別れが待っていました。
物語はよく作りこまれていて、細かな伏線とその回収が見事です。
探偵の名刺やレコーダーの音声、差し押さえの家のやりとりなど様々なシーンの出来事が後から活かされて物語の進行に不自然さがありません。
ハードボイルドとは真逆な小説でありながら、最後はハードボイルド小説のように哀愁のあるラストが待っています。
物語の序盤からは考えられなかった読後感には驚き、読書っていいなぁと改めて思わせてくれました。